創業一代記

オカハタ創業一代記 -紀州梅干の革命児 岡畑精一ものがたり-

梅ひとすじに続け、一代でオカハタを築いた創業者・岡畑精一。
これは、不屈の精神で本物の梅干作りにこだわり続ける創業者の物語である。

浜辺にて学生時代の同級生と(写真前列左)
岡畑精一は昭和17年、紀州田辺の上芳養(かみはや)に農家の長男として生まれた。将来は漠然と農業を継がなければならないだろうと考えていたが、その時は意外にも早くやって来た。中学2年生になった時、父が病気のため急逝したのである。

子どもの頃から責任感が人一倍強かった岡畑は、農家の長男として一家を支えていくことを決意。「これからは長男として姉弟を守っていかないといけない。でもとりあえず、高校だけは行かしてもらおう」と考え、地元高校の農業科に進学したのだった。

当時は、今のような農機具もなく、農業も牛の力を借りていたので牛の世話も必要になってくる。毎日朝から牛の餌用に草を刈り、牛の世話をしてから学校へ。学校では必死になって勉強し、授業が終わればすぐに家に帰り畑作業に没頭する日々。

遊ぶ暇など全くない必死な毎日の中で、岡畑はある一人の教師と出会う。竹中勝太郎。今や梅の有名ブランド「南高梅(なんこううめ)」の名付け親としても知られる人物である。岡畑は「現在のオカハタの梅作りは竹中先生との出会いから始まったと言っても過言ではない」と今も竹中を信頼してやまない。その信頼感はこんなエピソードからも伺える。

ある日、岡畑は竹中に教えられた通りに梅の木の剪定をしていた。それを見た近所の農家の人たちは口々に「そんなに枝を切っては梅の実がならない」と言った。木の剪定は良い実をつけるかどうかを左右する大事な作業である。親切心から出た忠告であると分かってはいたが、岡畑は信頼する竹中の教えを信じ、教えられた通りに剪定を続けた。

その結果、収穫時期には梅の実がならないどころか、大きくふっくらとした梅の実がたくさんなったのである。竹中を信じ、人に何と言われても自分の信念を貫いた岡畑。わずか14歳の若さで一家の大黒柱として家族を支えなければならなかったこの強い精神力こそが、この後のオカハタの発展を支える礎となるのであった。

初代ビニールハウス
岡畑が自分で作った梅の加工・販売事業を立ち上げたのは26歳の時である。家族を支えるためにも毎月安定した収入を得たいと考え、姉や弟の助けを借りながらのスタートであった。

岡畑は梅作り、梅干作りに取り組みながら「こうしたらもっといい梅ができるのでは?」「こうしたら効率的に作業が進むのでは?」という好奇心を胸に次々と新しい試みを実行していった。

例えば収穫の際には、漁師から分けてもらった網を畑に敷いてみた。これは、木で完熟させて自然落下まで待つ紀州梅が、直接地面に落ちて傷が付くのを見てどうにかできないものかと考えた末に生まれたアイデアだった。

結果的には、網がクッションとなり梅に付く傷が激減、さらに梅の実を拾う作業も以前は雑草が邪魔をして手間がかかっていたのが改善され、作業効率がグンと上がった。これまで10人でやっていた収穫の作業が4・5人でできるようになったのである。

また、梅のハウスでの天日干しも岡畑のひらめきである。ハウスの中で野菜を作っているのを見てピンと来た岡畑は、天日干ししている梅もハウスの中で干せないものかと考えたのである。ハウスなら天候を気にすることなく、山の中でも3~10月の間は夏と同じような気温に保てる。さらに朝倉庫から出して夕方に干した梅を倉庫へ戻す手間も省け、作業の合理化につながる。

しかし始めてはみたものの「オカハタの梅はハウスで干してるからあかん」と散々叩かれる毎日。時にくじけそうになりながらも岡畑は思った。「こういった言葉に負けたら何も新しいことができない。改革ができない」

逆風の中、不屈の精神で自分のやり方をやり通した岡畑は当時の厳しい状況を振り返る。「新しいことをすればまずは否定される。それでも私は自分のやり方を貫き、今日までやってきました。たとえ『変わり者』と言われ続けても自分の信じたやり方を変えませんでした。きっといつかみんなも私の考えを理解してくれる。それを信じてやるしかないと頑張りました」

現在では、網を使った収穫もハウスでの天日干しも「当たり前のこと」として梅農家に広まっている。変わり者からパイオニアへ。それは岡畑自身が認められた瞬間でもあった。

妻との出合い
岡畑が結婚したのは昭和44年のことである。
妻・康栄(現オカハタ専務)とはお見合いだった。これまで一家の大黒柱として遊ぶことも知らず働きづめだった岡畑は「自分の妻となる人にはきちんと自分の仕事を見てほしい」との思いで、康栄を初デートで梅園に連れて行ったのであった。

初めて会ったときに「この人と結婚するかもしれない」と思いました。
彼の夢を自分も一緒に追いかけようと決意したのです。 (岡畑康栄)

「仕事ひと筋のとってもまじめな人なんやけど、会ってみてくれない?」
友人にそう言われてお見合いをしました。その時私は21歳になったばかりで、結婚をする気なんて全然なかったのです。高校を卒業して大阪でOLをしていたのですが、20歳になった途端に、両親からの「早く帰って来て花嫁修業をするように」という矢のような催促に負け、泣く泣く帰って来たばかりでした。ですから、最初から断るつもりの軽い気持ちでお見合いをしました。

ところが初めて彼に会ったとき「私はこの人と結婚するかもしれない」と思ったのです。両親に「精一さんと結婚を前提に付き合いたい」と伝えたのですが、あれほど早く嫁がせようとしていた両親は猛反対。「お前に農家の嫁が努まるはずがない」と言うのです。
しかし、若くて世間知らずの私は「これは私の問題で、私の人生やから、私の好きなようにさせてほしい」と言いました。
そして自分でどんどん話を進めてお付き合いをするようになりました。今思えばかなり積極的だったと思います(笑)。

一番最初に二人で行った所は梅畑。
梅の花が散って新芽が出始めた広い畑の中を歩きながら、梅のことを彼は一生懸命説明してくれたのですが、当時の私はあまりにも無知で、何を言われてもチンプンカンプンでした。
でも、ただひとつ、今でも心に残っていることがあります。それは「梅はどれだけたくさんの花が咲いても自分の花だけで受粉する確率が低いんや。満開になって4~5日暖かい日が続いてミツバチが活動してくれたら、他の花の花粉をもらって受粉して、やっと結実する事ができるんや。でも梅の花の咲く頃は、まだ寒い日が多いからなぁ。他の果樹に比べたら実を付けるための条件は厳しいなぁ」という話です。

私はそれを聞いて、梅はなんとけなげなのだろうと思いました。いつ寒波がやってきて花が全部ダメになってしまうかもしれないのに、一月の末頃から開花し、二月半ばには寒さに耐えながらも満開の花を咲かせる梅。

彼が「自分の夢を実現するには一人では限度があるけど、二人なら二倍じゃなくて三倍にも四倍にもできると思う」と言うのを聞いて、「私も梅の木のようにけなげにがんばろう」と固い決心をして、結婚しました。
昭和44年の9月のことでした。

健康ブームのさなか、今では当たり前となっている低塩梅干だが、当時は塩辛く酸っぱいものが主流。岡畑も伝統的な白干し(漬け込み干したままの梅干)と、しそ漬け梅干を作っていたが売れ行きは今ひとつだった。

そんな時転機になったのが、ある問屋からの一言だった。「どうせ売れないのだったら、低塩梅干を一回作ってみたら」。この言葉をきっかけに本格的に低塩梅干作りに取り組み始めた岡畑だったが、大きな壁にぶち当たる。

本来梅干は塩分により品質が保たれてカビも生えない。しかし塩分を抑えると、最も大切な品質管理の面でどうしても問題が起きてしまう。「一体どうしたらいいんだ」と頭を抱え、眠れぬ日々が続く。

そんなある日、偶然ある大手食品メーカーの人と知り合う機会があった。岡畑が低塩梅干作りの悩みや疑問点をぶつけてみたところ、その会社の研究員が泊まりこみで指導に来てくれることに。この日から、研究員との二人三脚の日々が始まった。

不眠不休で試行錯誤を繰り返し、品質管理や調味液の配合などを研究。そして遂に塩分20%前後の梅干が当たり前の時代に、低塩梅干「うまい梅」(当時は塩分8%)が完成、そして「うまい梅」よりさらに低塩の「幻の梅」(塩分5%)の開発にも成功したのである。

今やオカハタの2大看板に成長した「うまい梅」と「幻の梅」だが、販売当初はなかなか相手にされなかった。「塩分15%以下のものは梅干じゃない」と同業他社にも叩かれる有様だった。

しかしこの頃から健康ブームの追い風が吹いてくる。低塩梅干は徐々に多くの女性や健康志向の人々から支持を受けるようになり、関東地方を中心にどんどん売れるようになっていった。そこには「自分が食べて美味しいと思うものを作りたい」「安全で安心して食べられるものを提供したい」という岡畑の熱い思いが凝縮されているのであった。

加工業は苦労の連続。新製品の開発で苦しむ彼を見て
私も眠れぬ日々を過ごしていたのです。 (岡畑康栄)

結婚した時には既に加工業も手がけていたのですが、加工業は分からないことばかりで苦労の連続でした。設備投資もしなくてはなりませんし、原料も調達しなければなりません。当然まとまったお金が必要になってきます。貯金は底をついていたので、地元の農協から借りられるだけ借りて何とか操業していました。

厳しい日々の中で支えとなったのは彼の夢でした。彼はよく言っていました。「今後梅の収穫量はますます増えていくだろう。その時に栽培農家が換金に困らないようにしてあげたい。そして紀州の梅干を全国に広めることで地場産業の発展にも貢献したい」と。

昭和49年頃に、爆発的に「かつお梅」が売れ出したこともあり、オカハタでもこれまでとは違う商品の開発に取り組むことになります。当時の主流だった塩辛く酸っぱい梅干ではなく低塩の梅干作りをスタートさせたのです。

現在の主力商品である「うまい梅」ができるまでに、夫はどれほど眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。カビの問題はもちろん、品質を安定させるためにどれほど苦労したことか。私にははかり知れぬ苦しみがあったことでしょう。

しかし私も一人悩んでいました。経理一切を任され簡単な帳簿だけをつけている間はよかったのですが、銀行と取引ができるようになると試算表や資金繰表の提示を求められるようになってきたのです。経理や簿記の専門知識もなく商売には全くの素人であった私の手に負える問題ではありませんでした。税理士さんを雇う余裕もなく四人の子ども達の子育てにも追われる日々の中で、私自身も眠れぬ夜を過ごしていたのです。

そんなある日、新聞の折込チラシがきっかけで簿記の通信教育を始めることにしました。仕事と子育ての合間の少ない時間をやりくりしながら必死で勉強しました。地元の商店で経理をしていた妹も時々教えに来てくれ、3年という月日がかかりましたが何とか通信教育の全過程を終了。こうしてオカハタの財務会計の基礎を作ることができたのです。

自然の豊かな山間にあるオカハタ梅干工場

● 紀州梅の自然の美味しさを味わってほしい

梅干は昔から日本人の生活と健康に欠かせない食べ物として重宝されてきた。その健康食品としての梅干を作るにあたり岡畑には決して譲れないものがあった。

「同業他社が合成保存料や化学調味料などをどんどん使うようになる中で、私はどうしてもその類のものを使いたくなかった。食べてくれる人には、本当の紀州梅の美味しさを味わってもらいたいのです」

紀州梅本来の味が感じられる梅干、安心して食べられる梅干を届けたい。岡畑は梅干作りを始めた当初からの変わらぬ思いを、今もそしてこれからも持ち続けたいと思っている。

● 豊かな自然に囲まれたこの土地を守りたい

梅干作りにはその環境も大きく関わってくる。自然豊かな山間部にあるオカハタの工場では、環境を守る活動にも熱心に取り組んでいる。

周辺河川の護岸整備、ゴミゼロの推進、そして岡畑自らが今でも365日24時間体制で排水管理も行っている。上芳養(かみはや)の自然を大切にしながら梅干を作りたい。それがこの地で天職を与えられたものの責任でもあると、岡畑は従業員たちと共に汗を流しながら日々実感している。

「自分が食べて美味しいと思う、安全で安心なものしか作らない」
彼の信念が次代を担う人たちに受け継がれることを願っています。 (岡畑康栄)

私は子育てに注ぐべき情熱のほとんどを、仕事に注いで来たと言っても過言ではありません。夫の夢を実現させるために子どもたちにも随分助けてもらいました。本当に心から感謝しています。
「自分が食べておいしいと思うもの。しかも、安全で安心のできる商品をお客様にお届けすること」 創業当時から今も変わらぬ社長の信念を、「うまい梅」「幻の梅」とともに、次代を担う人達が永々と受け継いでくれることを心から願っています。

岡畑は「お客さまからの『美味しかった』の声が何よりの励みになる」と言う。さらに常に岡畑を支え、家族を支え続けてきた妻への感謝の気持ちも忘れない。

夢に向かって真摯に歩み続けてきた岡畑精一64歳。
従業員や多くの人に支えられながら、今日もまた一粒一粒に思いを込めてより美味しい梅干作りに挑戦し続けている。


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